西郷隆盛と徳の交わりシンポジウム当日

 

いよいよ本番当日を迎えてしまいました。

人生初のコーディネーター。難しかったです。

パネラーの皆様のお話、

概要5分・本論10分で語ってくださいという

お話の内容ではなくて。

それぞれとても深いお話・お題だったんです。

パネラーの皆様にはご無理を言ってしまい

申し訳なかったです。

 

そして、結局、なんだかんだ

時間は過ぎゆくもので。

途中からタイムキーパーみたいに

なってしまった…。

振り返ると、時間との闘いだった。

コーディネーターって難しいな~。

 

最後まで時間に追われて…

まとめもなんだかまとまらず。

自分的には納得できず…。ふ~む。

緊張して最後、うまく話せなかったので…

最後の「まとめ」だけ、原稿載せます!

(内容はあくまで自論です)

なので今日のブログは長いですよ~。

 

来年の明治維新150年、NHK大河「西郷どん」を良い機会として、

地域の皆様に日本全国の皆様に西郷先生と荘内のご縁を、

『徳の交わり』という歴史を知っていただきたい。

そして、多くの方々に庄内を訪れていただきたいと思うんです。

そして、是非、南洲翁遺訓を読んでいただきたい。

西郷先生の教えに触れていただきたいと思います。

 

今回、私にとっても西郷先生と庄内のご縁、

そして南洲翁遺訓を改めて学ぶ

良い機会となりました。ありがとうございました。

 

学んでいくうちに、知らないうちに、

私は第13代藩主酒井忠篤公の目線で歴史を考えていました。

 

忠篤公が家督を継いだのがわずか10歳のとき。

戊辰戦争で降伏したのが16歳のときです。

藩校致道館で処分を言い渡されるときは、

さぞ怖かっただろうなと思うんです。

そのときの寛大な処分には

心からほっとして感動したと推測します。

 

その後の明治新政府の正式な処分は、

会津若松12万石、磐城平5万石への転封命令、

70万両の献金命令など、

もう、臣下一同、失意のどん底だったと思います。

 

声を大にして言いたいのは、

正式な処分は決して寛大な処置ではなかったということです。

その後、30万両を収め、転封・献金問題は解決。

 

西郷先生の教えに未来への希望を見出し、

西郷先生の勧めもあってドイツに留学するも、

西郷先生が西南戦争で亡くなった後は、

中央の派閥・主導権争いに巻き込まれて、

帰国後には佐倉分営詰という閑職に追いやられて、

病と称して辞職する。

 

どれだけがっかりしたことでしょうか。

 

西郷先生には明治維新以降も遣韓論の後も、

政府の中枢に留まり活躍していていただきたかった。

生きていていただきたかったと今日、

強く思いました。

きっと、庄内の先人たちもそう思ったことでしょう。

 

最後に、未来の話をしたいと思います。

鹿児島の島津様からのご依頼で、

来年4月8日、鹿児島の仙厳園で開催される

第24回「曲水の宴」に出演することになりました。

これは私の祖父・酒井忠明が平成10年、

そして父・酒井忠久が平成17年に出演しております。

酒井家3代に渡る出演、今から気合を入れたいと思います。

 

西郷先生とのご縁からはじまった、

鹿児島とのご縁を

これからも地域をあげて、

大切にしていきましょう。

そして、会場の皆様とともに、

庄内地域をもっともっと盛り上げていきたいと思います。

 

本日は本当にありがとうございました。

 

以上、原稿はあったんだけど…

読むのはやめて、直接お話したら、

いたるところが抜けてしまった!

終了時間に追われたこと、緊張が原因ですね。

まだまだだ。

 

次こそ!(次は… ないかな…)